七十年代、私が高校生の頃、下宿近くの町工場でアルバイトをしたことがある。従業員十名足らずの古びた小さな町工場だった。作っていたのは確かアルミ製のベビーカーだったと記憶している。私の仕事は3センチほどのアルミの丸棒にネジ穴を開ける仕事だった。昼の1時から6時までの5時間、黙々とボール盤に向かって穴を開けていた。電動ドリルを扱うのだから危険といえば危険だが、少し慣れれば誰にでもできる内容である。 経営者夫婦はいたって気の善い世話好きな夫婦で、そのような町工場だから従業員も家族同様、人柄の優しいまじめそうな人たちばかりだった。
6時になるとベルが鳴り、引き続き残業する数名にはチキンラーメンが出される。私と、もう一人の友人、経営者夫婦も残業組に交じってチキンラーメンを食べた。そのうちに、私たちは兄と弟のように仲良くなって、終業時になると近くの食堂へ夕食を食べに行くのだった。
給料日、その日がアルバイト最後の日になり、残業後私たちはいつものようにいつものメンバーで夕食を食べに出かけた。「休みになったらまた来いよ。」と彼らは言った。3名の内の一人が「で、いくらもらった?」と聞いてきた。
その時初めて賃金のことが話題に上ったように思う。私たちは給料袋を開け明細書を彼らに見せた。すると彼らは一様に声を上げ、信じられないというような顔になった。少なくて声を上げたのではなく、彼らは自分たちの給料と比較してみて多過ぎるのでびっくりしたのである。私たちのような臨時雇いが正従業員より、賃金が多いはずがない。しかし私たちも彼らがもらっている賃金を聞いてその少なさに驚いた。確かにバイトの私たちより3分の1は安い。びっくりするはずだとその時は思った。 「なんでお前らの方が俺たちより賃金がええんかのぉ」と情けなそうな声で3人の内の一人が言った。少し気まずい雰囲気だった。それでも、その場はにこやかに別れ、それ以来、人の善い彼らと再会することはなかった。
私は次の休みも違うアルバイトに就くことが出来た。しかし、私たちの時給の方が正従業員の彼らの給料よりなぜ多かったのかという疑問は残されたままだった。
今思うと、要するにこういうことではなかろうか。つまり、彼らの給料からは保険、年金、退職金等の一部が天引きされていたのではないかと。いずれにしろよくわからないことだが、まともな考えの経営者なら、厚生年金、労災保険、健康保険、雇用保険には加入していたはずだ。彼らはこのような制度について、よく識らなかったのではなかろうか。そして、それらの制度には自己負担分がついて回り、現在よく言われている(同一価値労働同一賃金)という制度を採用すれば、彼らの給料は、何の保証もない私たちバイトの時給より少なくなってしまう。
今おきている雇用問題は、派遣などの非正規労働者と正規労働者の賃金体系を同一にせよ、ということに偏りがちだが、根本をたどれば非正規労働者に失業保険、健康保険などのセフティーネットがなかったことによる弊害のほうが大きい。仮に失業保険に派遣会社、企業のいずれかが加入していれば、(年越し派遣村)のような社会現象は起こらなかった。ところが、現在の法律では就労期間が一年以上に満たなければ失業保険は下りない。労働人口の三分の一を占める非正規労働者の六割が失業保険、健康保険の非対象者である。
国は失業保険の見直しを検討しているが、日雇い派遣には派遣会社が、契約派遣には企業が、期間に応じたそれ相応の失業保険制度を採り入れるべきである。それができなければ、派遣労働という労働形態は倫理的に成り立たない。容赦なき(首切り)が繰り返されるだけだ。
最近のコメント